明け方の、前だった。
ひそかに感じた気配にあげた顔は、引き攣っていた。
「おにいちゃん」
眠さに勝てる訳もなく、ただ一瞥をくれて、俺は布団にもぐり込もうとした。
だが布団は無慈悲にも剥がされ、
電気の紐が揺れる影も追う暇なく明かりが点いた。
眩しい。
咄嗟に顔を覆った手のひらを、雪がつかむ。
「おにいちゃん、起きて。カノがいないよ」
「…何……?」
カノというのはうちの猫だ。
うちのマンションで室内猫として立派に育っている、
そして雪よりも俺にしっかりなついている雑種の彼。
「どこか外に出したのか」
「あたしがそんなことする訳ないじゃない、いないの、とにかく」
「窓の鍵は見たか」
開いている。
リビングの、ベランダへの出窓。
俺は雪の方を振り向かず、舌打ちをしてジャケットを羽織った。
「…ねぇ、あたしじゃないんだってば」
背を向けたまま、黙ってジッパーを上げる。
「どうせおにいちゃんがまた……」
「うるさい!」
俺の怒鳴り声にすくんだ雪が涙目になる。
その瞳に、自分が萎縮するのが分かった。
「気付いたら…気付いたら、いない……」
「分かった。分かったから」
分かっているのに、
反射的に雪の涙には柔らかい態度を取ろうとする。
自分が嫌でしょうがない。
「探しに行くの?」
「お前はもう寝ろ」
「やだ、あたしも行く!」
「黙れ!」
怒鳴った瞬間、あぁ、と思った。
もう、既に手遅れだった。
雪の黒い髪が掻き毟られ、悲鳴に近い嗚咽が響く。
「いやぁ…もういやなの!何も…何も、壊れ…」
嫌だ。
逃げたい。
この場所から。
早く。
早く。
早く。
だけど、そうしたら、俺はどこに帰る?
言い様のない恐怖感が、無音の脳内に響く。
もうずっと一緒だった、
もうずっと長い時間を過ごしてきた、
そんな過去だけが現在の理不尽を縛る。
まるで、フラッシュバックのようだ、
そう思いながら、雪の頭を撫でる。
「探してくるから」
返事はなかった。
そのまま、玄関を出て、ドアを閉めた。
もう嗚咽は、聞こえてこなかった。
「カノ、こっちおいで」
俺の可愛い奴は意外と早く見つかった。
マンションの裏、自転車置場の片隅。
「寒いだろ、カノ。おいで、月キレイだから」
俺はあいつを月見に誘った。
自転車の間をくぐり抜け、しゃがみ込んでいる俺のところまで、カノが走ってきた。
カノの重みを膝に感じながら、コンクリートの塀に背を預ける。
「雪が探してた」
ぽつり、呟く。カノは俺の膝の上でじっと、一点を見つめている。
その先。
マンションとマンションの間の隙間。暗がり。
「どこ見てるんだ、カノ」
勿論、こいつは答えない。
冷える程、月の輪郭は美しくて、俺は涙が出そうになった。
6年前。
まだ鮮やかに思い出す、全てがうまくいっていた頃を。
カノはいなくて。
俺と雪。二人きりで。楽しくて。ふたり。このマンションで。
いつからずれたのか、そんな事すら分からない、俺には。
いや、そんな事を言えば、最初からずれていた――俺達の関係は。
「戻ろうか」
俺は、カノを抱いて、エレベータホールに入った。
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